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二丁目の夜

妻は山手線で隣席に本木雅弘座ってたとか新宿五丁目で古尾谷雅人見たとか言う。俺なんかサブナードの階段下りてく武満徹を「後ろから」見たのと二丁目で中上健次を数秒目撃した位だ。バーの扉を開け「違うな」って顔で消えた。あん時声掛けてたら三田誠広の100倍ボコボコにされてただろうな。

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彷徨う架空の街

西日暮里で黄色舞伎團2「夜の建築」を観た。客は檻に入れられ役者達にじろじろ視られる。半年後タイニイアリスで「架空の花」。これは観ていないのだが、後に書籍になった。客は紙を渡され新宿の街に出る。紙の指示通り胸に赤いハンカチの人に声をかけるとポルノショップに連れていかれ、そこでまた紙。そしてまた誰か。1988年の事。ツイッターってこれなんじゃね?

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嘘だった、と真実を告げられても、
「あ、そうなんだぁ」
と言える心のスタンス、前もって形づくっておくように心掛けている。

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アンソロポロジー トピックス

考えること

「考えること」そして“意見”を述べ根気強く説明することに嫌気がさし、物理的威圧や精神的暴力で“解決”しようとする人は、いつの時代にも一定のポピュレーション存在した。民主主義が定着して以来も。2020年現在、おそらく地球上における「考えること」の絶対数は歴史上かつてなく肥大している。この二つの事実は決して矛盾しない。
よく言われることではあるが、科学技術そのものは善でも悪でもない。ダイナマイト(或はE=mc^2)に対する非難が当たらないと同様、それ自体が称賛に値するわけではない。今日肥大した「考えること」の大半が精緻な“研究”プロジェクトであり、それは本来価値的にはニュートラルなはずなのだが、“人の役に立つ”真善美なるイノベーションというプロパガンダが様々なメディアを通じて、すんなりと人々の意識に入り込んでいる。
知的活動の専門化と分業が圧倒的になると、「考えること」を職業とするわけではない人々は、専門家や評論家は正義ではない、と(結局一回転したことになるが)正論を言う。技術的知識階級から疎外された階級を何と名付けようと、彼らのヒーローはアンチヒーローの面影を持っている。あえて下品な表現を厭わず言うと、アンチヒーローは「馬鹿なのに」支持されるのではなく、「馬鹿だから」こそ支持されるのだ。
彼らが憎悪するものはビュロクラシーでもあろうが、それも一つには故なしとはしないのだが、社会主義者のレッテルとごちゃ混ぜにされては、どちらにしても焦点が鈍る。
イノベーション・プロパガンダがアンチヒーローを生んだ一面を理解しておく必要がある。価値中立の科学、かつてない大量の知識労働の産物としての技術をどう利用してどこへ向かわせるか。本当のヒーローの仕事はそこから始まるはずだ。ヒーローを選ぶのに“専門”分業して考える必要はない、いわんや威圧・暴力をや。
一人一人が根気強く「考える」、意見を述べとことん「説明」する。
そんなことが、民主主義だからこそ難しい。自由は制限されない。ただし、誠実に「民主主義」を“考える”限りにおいてだろう。

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『わが解体』の後

文学を、ただ研究者として解釈し、史的に系統づけるだけでなく、創作者として、精神の高揚した一時期を過去にもっている以上、自己省察はこれまでも、むしろ苛酷にしてきたつもりではいた。その省察を直接的に作品に定着する私小説家ならずとも、文学はまず自己の省察に発する。批判的リアリズムなる形態で、社会の不正や機構の暴力を摘発することを任務の一部とする文学にあっても、それは文学であるかぎりは、まず自らの肉を斬っているはずのものである。

高橋和巳『わが解体』河出文庫

その肉体は昭和46年、39歳にして「解体」した。前年“階級闘争”の最後の泡沫も潰えた日本社会では、経済成長とともに大量生産された“中流下層”の家庭で育った子供たちに、その後80年安保がやってくるはずもなかった。『なんとなくクリスタル』な自己ストーリーが若者たちの脳中を横行したのだ。脚注を高度資本主義社会へのシニシズムとして受けとる読者は多くはなかった。(と言うより、現代若者風俗のカリカチュアとしては作者自身余りに自己投影強すぎではないの。)そこにはもう「敗北」の文学すら存せず、「文学」の敗北があるのみではなかったろうか。

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こんだけやりましたよ。

〽いろいろ手を変え品を変え

西洋仕込みの恋愛人間

ポケットの中にはいつも領収書

「僕はこんだけやりましたよ」

友部正人「君が欲しい」、『にんじん』URC

「こんだけやりましたよ」

象徴を消費して自得する小ブルジョワ恋愛依存症への皮肉たっぷり。

だったら、いっそ「クレヨンで描いたズボンを穿いて吉祥寺の街で気取ってやろうか」。

現代を支配するものはマルクス唯物史観に於ける「物」ではない、彼が明瞭に指定した商品という物である。

小林秀雄「様々なる意匠」、新潮文庫版

小林の時代から九〇年経つと、その質感や機能性すら必要でなくなり、ポケットの中にはただ領収書が残るだけになる。

此んな時代の中ではあれ、吾屹立せんと欲すれども、「芥川氏の住んだ『孤独地獄』」(宮本顕治)に堪えうるメンタルの強靭はなからん。じゃ、どうする?

このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。

小林秀雄、ibid.

いや、プロレタリアの意識はイデオロギーではないんだ、と反論しよう。『歴史と階級意識』を読み込もう。正しい階級の意識は正しい、という同語反復以上のものがあるはずだ。さあ、自らの内にある萎びた抒情にツルハシを打ちおろせ!

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ギャンブラーに幸あれ!

ギャンブルは、労働を小莫迦にしてアブク銭ばかりをあてにするようになるという政治的発言はばかばかしい発言である。小莫迦にされる労働しか与えられないのが今日の時点における歴史的必然だとしたら、低所得労働者に「一点豪華」の変革の思想、革命のエネルギーを与えるのは賭博の世界なのである。

寺山修司「賭けのエネルギー」、『書を捨てよ、町へ出よう』角川文庫

勝負事と賭け事の違いはこうだ。

「勝負」に勝つためには相手が負けるのが前提である。太平洋戦争もアメリカが勝手に勝ったわけではない。日本が負けた(無条件降伏)と同時に勝ったのだ。勝者の心は優位感で満たされるのであって、「自分との戦い」だけで終わる勝負は語義矛盾である。

「賭け事」は、つまるところ戯れなのだ。そこには決して負けない勝者がいる。たとえば宝くじでは胴元が五割以上寺銭をとっているように。確率でいえば、だから賭けた時点ですでに半分負けている。残りの半分が神々の戯れ(リーラ)である。運である。

実は、私は「誰にも負けてほしくない」主義者であって、そのために(私自身も含めて)誰にも勝ってもらいたくないのである。

人生(いわば是れ神々の戯れ)の中に「勝ち」も「負け」もないのだ。いや、そうあってほしい。

ギャンブラーに幸あれ!

映像はコロナ流行前(1月25日)のものです。