有限会社金井玩具製作所

社長挨拶……。

…と、それ風なものを書き列ねてみようか、とも考えたのですが、どう転んでも どこかの企業HPの コピペまがいのものにしかならないだろうなと諦め、せめて片言隻句たわ言ざれ言を並べてみようと思います。

企業というのは喰うか喰われるかだと、それは確かにそう思います。だから、気合を入れてやらなければなりません。信念を掲げ、社員に檄を飛ばし……。

いやいや、それは私には無理。常日頃自らには鞭を入れているつもりです。もちろん、51㎏の体躯が堪え得る限度内の力加減ではありますが(身長は172㎝です)。また、信念とやらは、殆どが空手形なんじゃないかと思っています。「『信』は『人』に『言葉』と書きます。言ったことをキチンと実行することです」みたいに何かのコンサルティング本に書いてありましたが、当たり前のことをわざわざ「信(念)」などと言う必要もないんじゃないかと思います。

片言隻句が長くなってしまいました。社長って、身を粉にして考えに考えないといけないんでしょう。まだまだ、私は全然ダメです。その点は一生懸命頑張る所存です。ただ、一方で「『人生は玩具だ』と海はいふ。」と金子光晴の詩にあるように、一生懸命はまた一生玩具なのかな、とも思います。ここ海なし県 群馬にも日本海の囁きや、太平洋の嘯く声が聴こえてきます。玩具の中に人生があり、人生の中に玩具がある、たとえば、そんなふうに聴こえます。それは楽しい玩具かもしれないし、悲しい玩具かもしれません。それでも、いいんです。

恐惶頓首

沿革

昭和35年
創業者 金井一、金井敏子、自宅敷地内一画で、動物ぬいぐるみの「目玉」を製作する事業を始める。当時は、ぬいぐるみの目の部分のパーツはプラスチック製やフェルトのものよりもガラス製のものが主流であり、色違いの2本のガラス棒をバーナーで溶かすところから始め、すべて手作業で造られていた。
昭和45年
工場新設。ぬいぐるみの製造販売を開始。サンリオ製品を手掛ける。数年後、西武百貨店とも取引を開始、事業を拡大。
昭和49年
工場増設。この頃より、玉川繊維販売株式会社より難燃性新素材「パイルトン」の加工依頼を受け、以後工業用フェルトやゴムシートの加工を開始。
昭和57年2月1日
社名「有限会社金井玩具製作所」として法人化。この頃より事業の主力部門は工業部品加工にシフト。
昭和60年-61年
工場及び倉庫増設。この頃より、松下電器(現パナソニック)向け部品供給が激増し、1日に4トントラック2台製品を満載して送り出し終わるのが夜中12時近くなどということも……。
平成4年
二階建て倉庫完成。社屋はほぼ現在の形となる。自動材料送り式油圧裁断機の導入。松下電器、三菱電機向け部品製造繁忙にともない、この頃までにぬいぐるみの製作は終了。
平成7年
「パイルトン」加工事業ピークを迎え、ぬいぐるみの仕入販売部門閉鎖。
平成20年
バブル崩壊後の厳しい環境の中、経営をコンパクト化して事業を維持してきたが、この年のリーマンショックの波が徐々に迫ってきた。
平成25年
代表取締役社長に金井一樹が就任。徐々に経営が安定する。
令和元年
長年あたためてきた、社名の由来である「玩具」部門復活の夢を具体化すべく、新規プロジェクトを発足。7ヵ年計画で大ヒット玩具で世界を席巻することを目指す。
会社概要
社名有限会社金井玩具製作所
本社/工場〒370-0604
群馬県邑楽郡邑楽町石打170-4
創業昭和35年
資本金300万円
代表者金井一樹
従業員12名
取引銀行群馬銀行 邑楽町支店
足利小山信用金庫 福居支店
tel: 0276-88-5237 fax:0276-88-5401

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コラム

現実の一人一人の個人が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個人としての人間がその経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係の中で、類的存在となったとき、つまり人間がその固有の力(forces propres)を社会的力として認識し、組織し、それゆえに社会的力を政治的力という形でもはや自分から切り離すことがなくなる時、はじめて人間的解放が成就されるだろう。

カール・マルクス

娘のドイツ語検定の会場が戸山キャンパスと聞き、やや無理スジに案内役を買って出て上京。娘の最寄りが大塚なので都電荒川線で面影橋まで。

一番奥の校舎が指定会場だった。確か、ここの二階か三階で科学論の講義があったなと思いだす。「日本では『ヴァイツェカー』と訳されてますが、正確には『ヴァイツゼッカー』と発音します。学会で一度会ったことがあるんですがね...」今では教授の言葉はそれしか覚えていない。

さて、一服して散歩するかと思ったが、昔はあちこちに置いてあった灰皿がどこにもない。108号教室の横を通って、生協横のラウンジに向かう。当時はこの大教室で”団交”などが行われていた。私はカール・バルトの本を買おうと思って書店に行き、間違ってロラン・バルトの本を買ってきてしまう間抜けな学生だったが、高校時代に柴田翔は読んだことがあったものだから、授業ボイコットという楽しい闘争に微妙な昂揚感を覚えていた。もちろん、すでに『僕って何』が圧倒的多数派だったのだろうが、私は空気が読めない体質なのであった。

煙草の煙がモウモウとしていた学生ラウンジは、当然ながら(?)すでになく、真新しい複合ビルに変わっていた。学生会館立て籠もり闘争は最終的にどうなったんだっけ?戸山記念体育館は早稲田アリーナ&スポーツミュージアムに変わり、その裏にドでかい高層の学生会館がそびえ立っていた。

ゆっくりとスロープを下りましょう。あの頃のままメタセコイアの大きな幹の先に、初夏の日を浴びた長三角形のシルエットで、緑の枝葉が揺れていますよ。

2019.06

引用:筑摩書房『マルクスコレクション1』