人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュエル)に過ぎない。…人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術もまた事件である。
小林秀雄「様々なる意匠」、『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫
ディルタイやガダマー同様小林は説明と理解は全く別物だと言っているのだ。
詩人が詩の最後の行を書き了った時、戦の記念碑が一つ出来るのみである。記念碑は竟に記念碑に過ぎない、かかる死物が永遠に生きるとするなら、それは生きた人が世々を通じてそれに交渉するからに過ぎない。
小林,ibid.
小林のいう「交渉」とは理解の過程を指すに違いない。ここにはヘルメノイティックの問題系が横たわっている。
ここで、少し話は躍ぶかもしれないが、ずっと気になっていた一つのイメージがある。(紙とインクと宇宙空間の物理学は一旦忘れて)数億光年離れた暗黒の宇宙にポツリと浮かぶ一冊の書物を思い描いてほしい。(例えばマラルメの詩集とか。)そのとき、「生きた人」がいなかったとしても(この仮定はすでに宗教的にも意味をなさないとは思うが)、「生きた神」がそれに代わりうるか。
彼らはまさに私によって、前もって殺されているのだ。あなたは単なる機会(道具)となれ。アルジュナ。
『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳、岩波文庫1992、11.33-34
ドローナ、ビーシュマ、ジャヤッドラタ、カルナ、及びその他の勇士たちは、私により殺されているのだが、あなたは彼らを殺せ。
「偉大なるアートマン」(マハートマ)の愛読書である。言うまでもないが、殺人教唆を読み取るべきではない。
殺すことを見ることに置き換えてみよう。
見られるものを見ている者は神の道具(nimitta)として見ているのだ。見られるものはバガヴァットによって前もって見られている。
長年抱いてきた疑問は、神は「前もって」見ているのだとしたら、アルジュナという道具(機会)がなかったとしても見ていたということになるのだろうか、ということだ。
もし「来るべき書物」(ブランショ)が銀河の彼方に浮遊しているとして、それは一体誰が読むのか、むしろ読むのは「誰」なのか?
シャーリプトラが授かった教えどおり「眼耳鼻舌身意もない」(般若心経)のだとしたら、神の目如来の眼で見るより他ないであろう。となると、人が宇宙の涯で原子に砕けようが、地球上の或る国或る町か村で俗塵にまみれ生業に追われていようが、事情はさして変わらないはずなのだ。
「殺せ」「見ろ」とクリシュナが言うとき、耳も鼻もない眼も腕もない私の腕が殺し、私の眼がすでに見ている。